ずっと『心語り』をしていたい
どうして私は上手くできないんだろう
どうして私は焦っているんだろう
どうして私は空っぽなんだろう
どうして私はこんなにダメなんだろう
問い続けて半世紀になる。
だが、しかし。
自分のやり方で家事を確立して
快適空間で過ごしている。
カフェミュージックをBGMにして
ブログの文章を綴っている、この瞬間。
どこに気ぜわしさが必要だろう。
つい先日まで
通常だったキッチンにやって来た
ご近所さんからの
大量のいただきもの大根を見つめる。
脳内に広がる大根ワールド。
そして終わりが見えてきたところで
柿大根にチャレンジする貪欲さ。
私は今、実は
上手くできてないことは少ないし
焦る必要があることは少ないし
少なくとも、空っぽではない。
総じて、私は今、
実はそんなにダメではない
はずなのに。
はずなのに。
なぜ、なおも深く深く
問い続けるのだろうか。
答え合わせのために振り返る
幼少期から成長期のエピソード。
懲りずに登場する
母親から喰らった一撃。
「アンタは話が長い」
「細かいことを説明し過ぎる」
「・・・で、何なの?」
現在もなお、頭の中に
このセリフが響き続ける。
本人に確かめようがないので
真実は永遠に謎だけど
母親は自分に禁止したモノを
そっくりそのまま
私に禁止したように思う。
そして私は
母親にとって良い娘でいるために
あのセリフを
完全に自分の一部として取り入れた。
取り巻くすべての人から
母親のように思われている、と
疑い続けながら大人になった。
私の話は支離滅裂で
場面・状況・自分の感情など
細部に渡って
分かって欲しい性質を持つ
という価値観を
どんどん強めていった。
自己表現の中で、最も身近な
会話という手段に
自信や満足が薄いから
感情のコントロールは
まるで車のアクセルとブレーキを
同時に踏むような動作となった。
「これが自分」
そう思いながら
生きる時間が長かった。
総じて、今、実は
そんなにダメではないはずの私の心には
埋まっていない大きな穴が空いている。
今を生きている私に
あの禁止の呪文は必要だろうか?
マナーやエチケットではあるにせよ
今の私に
あの禁止を強いてくる人はいない。
いるとすれば、それは私自身だけだ。
自分仕様で快適空間に存在し
キッチンで脳内に広がる大根ワールドを
華麗なるクリエイティブでこなすのは
とてもステキな経験だけど
禁止に縛られたままでは
喜びがどこにもない。
「今は、違う」
心理学も、作詞も、
占星術も、スピリチュアルも
学んだり取り組んだのは
私にとって、
自分と誰かの心の状態を
分かち合う入口
キッカケにしたかったためだと思える。
もう一人の自分と向き合うのは
この先も続くんだけど
苦痛を伴っても
それでもなお、やりたいと願うこと。
私は、これからもずっと
何よりも自分の癒しとなり
誰かの参考になるかも知れない
『心語り』をしていたい。











